エンタメ暴食記録

映画・小説・舞台など

ホームとハウス、あるいは役割

※ネタバレに配慮しません

 

3月中旬に『ミナリ』、その翌週に『ノマドランド』。

アカデミー賞ノミネート作品が立て続けに公開となったので

1ヶ月半ぶりに劇場に足を運んだ。

 

公開前からテイストがどこか近いというか、

焦点を当てる範囲がとても絞られた映画だろうと思っていた。

だけどそれぞれを鑑賞して気付いたのは個人の関係性、

極めてクローズドな関係性を描きつつも主軸が全く異なることだった。

 

まずはノマドランドの話から。

 


www.youtube.com

予告でも使われている印象的なシーンが主人公がかつての教え子に、

ホームレスじゃない、ハウスレスなの。というシーン。

これは作中に出てくるノマド全員に当てはまると思う。

 

さまざまなノマドに出会う主人公。

皆、ノマドになったきっかけは明るいものではない。

でも、彼らが悲観的になる場面はそう多くなかった。

何でだろう?

あるシーンを迎えて、すごく腑に落ちた。

 

出会ったノマドの一人が、

息子に家に戻らないか?と諭された後に、弱音を吐く。

祖父をやっていく自信がない、と。

 

作中のハウスという言葉は物理的な住居としての意味合いと

そこに住む人間同士の関係性を表しているのだ。

主人公も、姉の家と上述した息子に諭されたノマド(結局家に戻った)の家に

立ち寄ることがあり、そしてそれぞれにこの家に住まないのか?と誘われる。

姉と住めば妹という立場、

家に戻ったノマドには好意を持たれていたので彼の恋人という立場。

家に住むとなった瞬間、主人公には立場もとい住居の中での役割が生まれる。

 

きっかけはなんにせよ、ノマドはハウスから解放されている。

だから自由。

だから生きていけるのかもしれない、と思った。

 

それから作中でのホームは

主人公が車をそう称したように、今の自分の落ち着ける場所。

故郷という意味ではないだろうか。

 

家庭はないけど、故郷がある。

それがノマドかもしれない。

 

対して、ミナリはごりっごりのハウスの話。

ノマドランドを観た後だから気付いた。

 


www.youtube.com

 

家があって、家族が居て。

父と母、姉と弟。そしておばあちゃん。

 

役割があるから、その役割に従って振る舞うべきという作品内の空気は

おばあちゃんに対して孫たちがおばあちゃんらしくない、と文句をいうあたりからも

感じられた。

 

逆になぜ、この一家がハウスにこだわるのか。

それは彼らが移民だから。

生まれである韓国から、遠路はるばるアメリカまで来た家族だから。

彼らにはハウスはあるものの、ホームはないのかもしれない。

 

作中で移住してきた家は嵐で水漏れしたり、水道設備も完ぺきとは言えず。

ずっと母は、ここを離れようと父を説得する。

けれど父は譲らず、母が折れる。

 

父は言う「成功した姿を見せたい」と。

それはもしかしたら、父自身が子供の頃に見たかったものかもしれない。

成功してはじめて、故郷ができあがるのではないかと。

そんなことを思った。

 

 

ハウスがあれば幸せなのか?

ホームがないと不幸せなのか?

この2作品を観てからというもの、自分の中での問いかけになっています。

 

あ、アカデミー賞今日発表になりましたね!!